【この記事でわかること】
- 大地真央の圧倒的なオーラを形作った、淡路島の名家である実家の歴史
- 娘の芸能界入りを反対していた父親が、一転して宝塚受験を認めることになった意外な裏事情
- 美しく凛々しい姿からは想像もつかない、宝塚音楽学校・劇団時代のお茶目な爆笑失敗談
- 伝説の〝黄金コンビ〟として知られる黒木瞳との絆の深さを物語る宝塚初の退団劇
- 世界的に活躍する夫と送る、東京都内の広大な豪邸での華麗なセレブ生活の全貌
大地真央の実家はお金持ち?淡路島の名家出身!
女優の大地真央(だいち・まお)さんの実家は、兵庫県洲本市にあります。
要は、淡路島にあるということです。
大地真央さんの実家は、300年以上も続いてきた歴史ある庄屋(村役人)の家柄です。
約600坪(約1980平方メートル)におよぶ広大な田んぼを所有しており、この広さは小学校にある25メートルプールで例えると約6個分に相当します。
また、大地真央さんの祖母は、40歳で夫を亡くしたあとに5人の子どもを1人で育て上げながら、大勢の使用人を使って地域の婦人会を仕切っていました。
さらに、大地真央さんの祖母は和裁や浄瑠璃(じょうるり)の三味線(しゃみせん)にも長けており、地域住民からは「ご新装さん」(ごしんぞうさん:裕福な家の妻を意味する敬称)と呼ばれ、一目置かれる存在でした。
この祖母は大地真央さんが小学3年生のときに亡くなりましたが、大地真央さんの実家が経済的な余裕を保ち続けていた背景には、家業を力強く切り盛りした祖母の力が大きかったと伝えられています。
私は、大地真央さんの実家が300年以上の伝統を持つ庄屋として600坪もの広大な土地を所有し、多数の使用人を従えていたというエピソードを知り、大地真央さんが並外れた名家であり資産家の家柄出身であることに驚きました。
また、夫を早くに亡くしながらも大勢の使用人を動かし、地域社会で「ご新装さん」と敬意を集めていた祖母の強いリーダーシップこそが、現在の大地真央さんが持つ気品と圧倒的なオーラの源(みなもと)になっているのだろうと感じました。
大地真央の宝塚受験を支えた実家の経済力と家族の理解
大地真央さんは、4歳から日本舞踊とピアノを習い始めました。
また、宝塚音楽学校の受験を決意した中学3年生の後半の約4ヵ月間、クラシックバレエと声楽の本格的なレッスンを受けるようになります。
当時の淡路島には明石海峡大橋がまだ開通しておらず、本州へ渡る交通手段は連絡船に限られていました。
そのため、大地真央さんは毎週末、淡路島から船に乗り、神戸を経由して宝塚のレッスン場まで、片道3時間以上もの時間をかけて通い続けていました。
こうした大地真央さんの努力は本当に凄いと思いますが、それと同時に、毎週末、子どもを宝塚までレッスンに通わせられるだけの経済力が大地真央さんの実家にあったということも驚きでした。
ここまでして大地真央さんのレッスン通いを支え続けた実家の家族の深い理解と教育熱心さが、大地真央さんの才能の開花に大きな影響を与えたことはたやすく想像できると思います。
大地真央の小学生時代は〝活動的で引っ込み思案〟
大地真央さんは、淡路島にある洲本市立洲本第二小学校を卒業し、その後、洲本市立洲浜中学校へ進学しました。
小学生時代の大地真央さんは、毎日のように大浜海岸や三熊山で遊んでいたといいます。
三熊山では険しい山登りを楽しみ、大浜海岸では海水浴を楽しみ、男子児童たちとチャンバラごっこをして真っ黒に日焼けするほど活動的だったようです。
その一方で、大地真央さんは家の中にいるときはタオルケットをドレスのように体に巻きつけてお姫様ごっこをしたり、ホステスごっこをしたりして遊んでいました。
また、大地真央さんは小学生の頃から鏡で自分の泣き顔を観察し、自分がもっとも可愛く見える角度を自分なりに研究していました。
ちなみに、大地真央さんは小学生のとき、同じクラスのケイスケ君という男子児童に初恋をしています。
大地真央さんの性格は〝活動的でありながら意外と引っ込み思案〟で、音楽会で花形のピアノ奏者に選ばれた際に辞退したり、のど自慢大会の直前で不安になって舞台に上がれなかったりした経験があります。
ところが、大地真央さんはとても負けず嫌いなところがあり、姉とのケンカは決して一歩も引きませんでした。
自然豊かな淡路島で男子と活発に遊ぶ一方で、家では鏡を使って自分の見栄えを研究していたという大地真央さんのエピソードから、私は大地真央さんに、幼少期から培われた自己プロデュース能力の高さを感じます。
個人的には、おてんばな一面と引っ込み思案な一面、そしてお姫様ごっこを好む乙女らしさが同居していたからこそ、のちに宝塚でいろいろな役柄を演じ分ける表現力が養われたのだと推測いたします。
大地真央さんを支えた実家の家族構成と個性豊かな家族
大地真央さんは、1956年2月5日生まれで、血液型はB型、身長は166cmです。
その大地真央さんの家族の構成は、父親、母親、11歳上の長女、9歳上の次女、そして末っ子である大地真央さん(本名:森田真裕美)の5人です。
大地真央さんの父親は1914年(大正3年)生まれで、外国航路の船長を務めた元陸軍軍人でした。
戦後は、小学校の教師やガソリンスタンドの経営など複数の職業を経験したそうです。
父親が42歳、母親が38歳のときに授かったのが大地真央さんであり、父親は大地真央さんをネコのように可愛がり、叱ったことがありませんでした。
大地真央さんの顔立ちや容姿は、父親にとてもよく似ていたと言われています。
一方、大地真央さんの母親は淡路島ではなく神奈川県横浜市の出身であり、料理が得意で子ども想いの優しい女性でした。
大地真央さんの鼻の形は母親譲りだと言われています。
ところで、「大地真央」というのは芸名ですが、「真央」という名前は大地真央さん本人が幼少期から考えていたもので、一方、「大地」という苗字は一番上の姉が「大地を踏みしめて真っ直ぐに進むように」という願いを込めて提案したものでした。
現在、大地真央さんの一番上の姉は、大地真央さんの個人事務所「大地真央企画」でマネージャーを務めています。
ちなみに、大地真央さんのいとこには、コマ・スタジアムの社長を務めた白川公一(しらかわ・こういち)さんがいます。
元陸軍軍人や船長という硬派な経歴を持ちながら、末っ子の大地真央さんを一度も叱らず、深い愛情で育てた父親。
そして、横浜出身で温かく家族を支えた母親。
この2人の対照的で絶妙なバランスが、大地真央さんの成長と成功に大きな影響を与えたことは間違いありません。
また、芸名をつける際に姉が「大地」という力強い言葉を贈り、現在もマネージャーとして妹を支えていることや、親族に劇場運営会社の社長がいたという家柄を知り、大地真央さんの実家には強い結束力と高い社会的成功力が備わっているのではないかと感じました。
大地真央の実家の父親が宝塚入りを許した理由と最期の言葉
大地真央さんが女優を目指すきっかけとなったのは、中学校時代に義理の兄が劇団で主演を務めた舞台を鑑賞したことでした。
大地真央さんは市民会館で見たホリゾントライト(舞台後方を照らす照明)の幻想的な世界観に魅了され、演劇への憧れを抱き、洲本市立洲浜中学校にみずから演劇部を創設しました。
しかし、大地真央さんが芸能界に入りたいと両親に相談すると、父親は強く反対しました。
一方で父親は、軍隊時代の友人に相談したところ、「宝塚歌劇団ならば軍隊と同じくらい規律が厳しいから、安心して預けられる」と助言され、そこで父親は「どうしてもやりたいなら宝塚を受けてみるといい」と受験を許しました。
宝塚の舞台を見たことがなかった大地真央さんでしたが、残された4ヵ月間で猛レッスンを重ね、見事に宝塚音楽学校へ合格しました。
入団後、父親は大地真央さんの活躍を心から誇りに思い、新聞記事をすべてスクラップし、舞台を観劇する際には「ファンの人より前では見られない」と言って、客席の後方から静かに見守っていました。
また、父親は本家のいたるところに大地真央さんのポスターを貼り、宝塚の同期たちが実家を訪れる際にはあらかじめ掃除をして笑顔で迎え入れました。
そんな父親でしたが、1984年3月2日、大地真央さんが28歳でトップスターとして活躍していた頃、がんのため70歳で亡くなりました。
翌日が東京での主演舞台の初日だった大地真央さんでしたが、「顔を見ないと一生後悔する」と考え、ファンの車で夜11時に東京を出発し、10時間かけて宝塚へ向かいました。
自身のマンションで30分だけ仮眠を取り、神戸から船で淡路島の実家へ向かい、わずか30分の間でしたが、父親との対面を果たしました。
その後、大地真央さんは伊丹空港から飛行機で東京へ戻り、無事に楽屋入りして初日公演を成功させました。
父親が最期に遺した言葉は、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」(偉くなっても周囲に感謝しなさい)と「人生の波には逆らうな」(良いときも悪いときも抵抗せずに受け入れなさい)の2つだったそうです。
当初は猛反対しながらも、娘が宝塚に入ると、ポスターを貼ったり新聞をスクラップしたりして陰ながら応援し続けた父親の深い愛情に、私はとても感動しました。
また、父親が亡くなるとき、主演公演初日前夜であるにもかかわらず、車と船と飛行機を乗り継ぎ、わずか30分の対面のために実家へ駆けつけた大地真央さんの執念とも言える行動力から、父と娘の間には深くて強い親子の絆があったのだと実感させられました。
大地真央の実家の母親の手料理と深い愛情が健康と美の源
大地真央さんが15歳で親元を離れて宝塚音楽学校の寮に入ったとき、母親は「嫌になったら、いつでも帰っていらっしゃい」という温かい手紙を差し入れました。
大地真央さんは子どもの頃から母親の愛情がこもった手作り料理を食べて育ち、現在でも抜群の美しさと健康を維持しています。
大地真央さんが人間ドックを受けたときの医師から、「人間は12歳までに身体の基礎が作られる。ご両親に感謝しなさい」と告げられたエピソードもあります。
1998年、大地真央さんの芸能生活25周年記念リサイタルの稽古(けいこ)中に、母親は亡くなりました。
公演の中止も検討されましたが、大地真央さんは「公演をやめることを母親は望まない」と判断し、予定通りリサイタルをやり遂げました。
大地真央さんは母親の形見としてパールの指輪を受け継ぎ、姉はダイヤモンドの指輪を受け継いで大切に所有しているそうです。
私は、宝塚に入る年若い娘に対して過度なプレッシャーを与えず、「いつでも帰っておいで」と声をかけた母親の包容力こそが、大地真央さんの精神的な支柱となっていたと思います。
また、母親の手料理の栄養と温かい愛情が、現在の大地真央さんの健康美や凛(りん)とした生き方の源(みなもと)であるのだとも思います。
大地真央の数々のエピソードが笑える!宝塚音楽学校と宝塚歌劇団の頃
1971年に宝塚音楽学校に入学した大地真央さんの当初の成績は、49人中42番目でした。
学校や寮の規律はとても厳しく、上級生70〜80人全員の芸名、本名、ニックネームを暗記する必要があり、1年目は規則を守るだけで精一杯でした。
その頃の大地真央さんは、ピアノの授業をサボるために手に包帯を巻いて突き指を装ったり、授業を抜け出して遊園地でジェットコースターに乗ったりして楽しんでいました。
1973年、大地真央さんは59期生として宝塚歌劇団に入団しました。
初めて宝塚の舞台を観劇した大地真央さんは、その華麗さに感動して男役になることを決意し、1974年4月に月組へ配属されました。
1975年には、シングル『悲しみのアイドル』でアイドル歌手としてデビュー。
「まぶしいアイドル 太陽の19歳」というキャッチフレーズのもと、ミカン箱の上で歌うなどして全国を回り、約1年半にわたって宝塚の舞台を休演しました。
1977年の舞台『風と共に去りぬ』で機関士役を演じた際には、自作のハゲヅラをかぶり、演技中に帽子を脱いで客席や共演者を大爆笑させましたが、スタッフから厳重注意を受けました。
さらに、大地真央さんには、ズボンのファスナーを開けたまま登場したり、袴(はかま)の片方に両足を入れそうになったり、オーケストラボックスに靴を飛ばしたり、カツラがズレてセンターパーツの奇妙な髪型が見えてしまったりする失敗談があります。
私は、宝塚音楽学校の厳しい規律のなかでもユーモアや遊び心を失わず、舞台上でのアドリブやハプニングさえも自身の魅力に変えていった大地真央さんの度胸のよさは率直に凄いなと思いました。
また、アイドル歌手としての地方営業や舞台での失敗といったすべての経験を糧(かて)にして、誰もマネできない唯一無二のエンターテイナーへと成長していった大地真央さんは、大変魅力的な女優だと思いました。
大地真央と黒木瞳の〝黄金コンビ〟誕生秘話と歴史的な〝添い遂げ退団〟
1982年、大地真央さんは26歳の若さで、月組の男役トップスターに上り詰めました。
その相手役(娘役トップ)として抜擢(ばってき)されたのが、当時入団2年目で21歳だった黒木瞳(くろき・ひとみ)さんでした。
黒木瞳さんが月組に入ってきたとき、周囲の劇団員が可愛らしい服を着るなかでタイトスカートを着ていた姿が大地真央さんの印象に残ったそうです。
1982年の舞台『あしびきの山の雫(しずく)に』で大抜擢された黒木瞳さんは、スピード出世したために先輩から厳しく当たられることもありました。
しかし、大地真央さんは、稽古場で他の人が口を出せないようにあえて大声で黒木瞳さんを指導。
プライベートではドライブに誘って慰(なぐさ)めるなど、黒木瞳さんを大切に守り育てました。
1984年、大地真央さんが退団の決意を黒木瞳さんに伝えると、黒木瞳さんが「私も一緒にやめていいですか?」と申し出たため、宝塚史上初の〝トップコンビの添い遂げ退団〟となりました。
サヨナラ公演となった1ヵ月間の舞台では、13万5000人もの観客を動員する大記録を樹立しました。
そして、1985年、大地真央さんは2年5ヵ月にわたるトップスターの座を務め上げ、宝塚でやりたかった夢をすべてやり遂げたという満足感とともに宝塚歌劇団を退団しました。
私は、宝塚という厳しいタテ社会のなかで若くして抜擢された黒木瞳さんを守り抜き、2人で信頼関係を築き上げた大地真央さんの男前な優しさに胸が熱くなりました。
また、お互いに切磋琢磨(せっさたくま)した2人が宝塚史上初の〝添い遂げ退団〟となり、13万5000人ものファンに見送られたという伝説的なエピソードは、舞台以上にドラマティックだと思いました。
大地真央の学歴
大地真央さんは1971年に宝塚音楽学校へ進学し、1973年に同校を卒業しました。
その後、大地真央さんは大学などへは進学していません。
宝塚音楽学校は高等専門学校や高校と同等の資格(高卒資格)が得られる学校ではないため、大地真央さんの最終学歴は公的には中学校卒業(中卒)となります。
しかしながら、大地真央さんが舞台芸術の世界において教養、品格、演劇技能を身につけ、長年にわたり第一線で活躍されてきたことに、私は深い敬意を表します。
また、宝塚という厳しい実践の場で磨かれた圧倒的な人間力と芸の精進こそが、大地真央さんが日本のトップ女優となった真の理由であると思います。
大地真央の夫・森田恭通の推定年収は1億円!東京都港区に3階建ての大豪邸!!
大地真央さんには、2回の結婚歴があります。
1度目は、俳優・松平健(まつだいら・けん)さんとの結婚(1990年)です。
2004年に離婚しました。
2度目は、12歳年下のインテリアデザイナー・森田恭通(もりた・やすみち)さんとの再婚(2007年)です。
夫の森田恭通さんは、伊勢丹新宿本店のグランドフルリニューアルをはじめ、東京、大阪、ニューヨーク、香港など世界各国のレストランやバーの内装デザインを手がける世界的に有名なデザイナーです。
年間100日以上の海外出張をこなしています。
夫・森田恭通さんの推定年収は1億円を超えるとされています。
森田恭通さんはもともと大地真央さんの大ファンで、過去に雑誌のインタビュー記事を読み、「理想の女性だ!」と惚れ込んでいました。
プロポーズの際、森田恭通さんが「変わらず仕事を続けてほしい」と伝えたことが、女優業を継続したかった大地真央さんの背中を押し、交際開始から2ヵ月足らずでのスピード結婚となりました。
現在、大地真央さんと森田恭通さんが暮らす自宅は、東京都港区の閑静な高級住宅街にあり、最寄駅から徒歩7分の場所に建っているそうです。
3階建ての大豪邸であり、3フロアを合わせた建物面積は646平米(約195坪)という圧倒的な広さを誇っています。
なお、大地真央さんは2度結婚していますが、子どもはいません。
私は、淡路島の名家の娘として裕福に育った大地真央さんが、大人になってからも世界的に活躍するトップデザイナーの夫とともに、港区の646平米におよぶ大豪邸で洗練された生活を送っているという事実に、真のセレブ人生を感じてしまいます。
また、前夫との離婚を経て巡り会った森田恭通さんが、大地真央さんの女優としての生き方を全面的に尊重し、支えていることが、大地真央さんがいつまでも若々しく輝き続けている最大の秘訣であると私は思います。
