要潤の実家はうどん店ではない!両親、兄弟との関係は?過酷な下積み時代も詳しく紹介

要潤

【この記事でわかること】

  • 要潤の実家がうどん店と噂される理由と、要潤が「うどん県副知事」を務める背景
  • プロゴルファーを目指した父やマナー講師の母など、要潤の才能を育んだユニークな家族の経歴
  • 陸上競技でオリンピック選手を目指していた学生時代に起きた、人生を一変させた大挫折の真相
  • 血尿が出るほどの過酷な下積み時代と、芸能界入りを決意させた料理長の心に沁みる一言
  • デビュー作『仮面ライダーアギト』の舞台裏で要潤が直面した、厳しい試練と成長
目次

要潤の実家は「うどん店」ではなかった!その真相とは?

要潤(かなめ・じゅん)さんは、数々のドラマや映画、バラエティ番組でマルチな才能を発揮している俳優です。

ネットで「要潤 実家」というキーワードで検索すると、必ずといっていいほど「香川でうどん店を経営しているのではないか?」という噂がヒットします。

結論から言うと、要潤さんの実家がうどん店であるという事実はありません!

これはファンの間で広まった誤解や都市伝説の類(たぐい)です。

実を言うと、私も、その都市伝説にまんまと引っかかっていた1人です(汗)

要潤さんの実家がうどん店だと誤解される最大の理由は、要潤さんは出身地である香川県の観光大使を務め、「うどん県副知事」として熱心にPR活動を行ってきた背景があるからです。

過去にはPRの一環として「香川県をうどん県に改名した」というフィクションの記者会見を行ったこともあり、その強いインパクトから「実家もうどん店に違いない」というイメージが定着したと考えられます。

私も、このイメージにまんまとやられたというわけです(苦笑)

実際には要潤さんの実家はうどん店ではなく、一般の家庭です。

もっとも、要潤さんは、幼少期からおばあちゃんが作ってくれたうどんをはじめ、日常的にうどんを食べて育ったため、うどんに対する親しみや愛着が人一倍強いそうです。

要潤は実家がある香川県三豊市の豊かな自然で育まれた

要潤さんの生まれ故郷であり、実家があるのは、香川県西部に位置する三豊市(みとよし)です。

三豊市は温暖な気候と穏やかな海に恵まれており、近年では約1kmに及ぶ長い砂浜・父母ヶ浜(ちちぶがはま)が、南米ボリビアのウユニ塩湖のように空を水面に美しく映し出すことから「天空の鏡」と呼ばれ、観光名所になっています。

私もテレビや写真で観たことがありますが、想像以上の美しさで、ぜひ一度訪れてみたいなと思っています^^

要潤さん自身は子どもの頃、夏休みのときなどに、この美しい父母ヶ浜へ行き、夕方まで過ごしていたと言いますが、当時は現在のようなブームが起きる前だったため、静かな地元の海として親しまれていました。

要潤さんは、こうした穏やかで美しい自然環境の中で多くの時間を過ごしたことが、のちの俳優としての豊かな感性や温和な人間性を育む土台となりました。

要潤の実家の家族構成と先祖からのユニークな血筋

要潤さんの実家の家族構成は、父親、母親、そして2歳年上の兄がいる4人家族です。

家族の絆は強く、要潤さんの誠実な人柄や卓越した才能は、このユニークな家族や先祖の血筋から大きな影響を受けています。

要潤の父親・由起男さんは異色の経歴!

要潤さんの父親の由起男(ゆきお)さんは一般人ですが、興味深い経歴の持ち主です。

由紀男さんは中学時代から野球に熱中し、高校卒業後は大阪のエレベーター補修会社に就職しました。

しかし、22歳のとき、野球からゴルフに転身して大活躍していたジャンボ尾崎さんの姿をテレビで見て大きな衝撃を受け、わずか4年で会社を辞めて香川へ帰郷。

プロゴルファーを目指しながらゴルフ場で働き、のちにゴルフ場の支配人を務めた経験もあります。

現在はアマチュアゴルフの大会に出場するなど、生涯を通じて挑戦を続ける情熱的な人物です。

由紀男さんは、自分の夢を力強く追い求める方なのだと私は思います。

要潤さんが芸能界に入り、まだ駆け出しの若い頃には、ファンサイトに投稿された一人ひとりのメッセージに対して父親が返信を書き、熱心に応援していたという温かいエピソードも残されています。

とことん息子想いな方なのでしょうね。

ちなみに、容姿は、元横綱の白鵬(はくほう)さんに似ていると言われています。

父親ですから要潤さんと似ているのでしょうが、私には白鵬似というのが少しイメージしづらいところです^^;

要潤の母親・多喜代さんの教えと職業

要潤さんの母親の多喜代(たきよ)さんは、日本全国でマナー指導を行う「全日本作法会」の講師を務めています。

お箸(はし)の使い方、靴の脱ぎ方、お茶碗の持ち方といった美しい作法や行儀作法を教える専門家であり、生徒からは「何を聞いてもきちんと答えてくれる、気さくで優しい先生」と慕(した)われているそうです。

要潤さんは両親から〝常に感謝の気持ちを持つこと〟〝何事にも一生懸命に取り組むこと〟の大切さを厳しくも温かく教えられて育ちました。

この両親の教えが、芸能界という厳しい世界でも変わらない、要潤さんの誠実で真面目な人柄を形成する大きな要因となっているのは間違いないと思います。

要潤の2歳年上の兄との絆

要潤さんの2歳年上の兄は一般人であるため、名前や職業などのプロフィールは公表されていません。

要潤さん自身がメディアで兄について多くを語ることはありませんが、子どもの頃から仲が良く、ケンカらしいケンカをほとんどしたことがないほど良好な兄弟関係を築いてきました。

本当に仲のよい兄弟なんでしょうね^^

特に、上京して俳優としてデビューする前の苦しかった下積み時代には、お兄さんをはじめとする家族の精神的な支えが、要潤さんの強固な基盤となっていました。

要潤の歴史的なルーツを持つ先祖

要潤さんの血筋をさかのぼると、興味深いルーツが明らかになっています。

要(かなめ)という珍しい苗字は全国で希少ですが、要潤さんの出身地である香川県ではわりと見られる苗字です。

要潤さんの先祖はもともと、岡山県から高松城の石垣を造るために香川へやってきた職人の家系です。

父方の曽祖父(そうそふ)は情熱的な人物で、地元の城山で旧石器時代の石器を発掘した実績があります。

この発見は、地元の博物館の学芸員から「この城山遺跡の研究が始まる大本となった、歴史的に極めて重要な功績」と評価されました。

一方、母方の祖父はわずか1頭の牛から酪農をスタートさせました。

最終的には50頭を超える規模まで拡大した努力家です。

その牛乳は愛媛県坂出市近郊の学校給食に採用されるなど、地域社会に多大な貢献を果たしました。

何かの道に情熱を注ぎ、一から形にしていく粘り強さは、先祖代々から要潤さんへと脈々と受け継がれている遺伝子なのだと私は思います。

要潤の幼少期から学生時代:引っ込み思案からの脱却と陸上への情熱

今でこそ高身長で圧倒的な存在感を放つ要潤さんですが、小学生の頃は引っ込み思案で消極的な性格でした。

今の要潤さんの姿からは想像できない意外な事実ですね。

幼少期は関西テレビの番組や吉本新喜劇を見て育ち、心の中には〝ボケの意識〟が染みついていましたが、それを人前で表現するのは苦手な子どもだったそうです。

そんな要潤さんの転機となったのが、小学校4年生のときに両親の勧めなどで始めた陸上競技と、地域活動でした。

要潤さんの性格を変えたジュニアリーダーでの経験

中学生になると、地元のボランティア団体である「ジュニアリーダー」としての活動を始めました。

それに伴い、要潤さんは、子ども会のキャンプやクリスマス会などのイベントで、年下の子どもたちを相手にレクリエーションゲームの指導や仕切り役を務めるようになります。

この経験について要潤さんはのちに、「引っ込み思案だった自分が人前に立つきっかけになり、その後の人生に大きく生かされている」と語っています。

消極的だった性格を克服する重要なステップだたようですね。

要潤は中高時代、オリンピックを目指していた!

陸上競技においては、中学・高校と陸上部に所属し、特にハードル種目で頭角を現しました。

中学時代には、400m走、砲丸投げ、走り幅跳びを組み合わせた「3種競技B」という過酷な種目に挑戦。

熱心に指導してくれた〝お兄ちゃん先生〟のような恩師の支えもあり、県大会を突破して四国大会で6位に入賞するほどの実力をつけました。

恩師の証言によると、走り幅跳びの記録をわずか2ヵ月足らずで1メートル以上も伸ばすなど、驚異的な成長を見せていたそうです。

私は陸上競技のことはよくわかりませんが、これって驚異的な成長なのではないでしょうか。

成長期だったことがあるのでしょうが、それでも2ヵ月で1メートル以上跳べるようになるのは凄すぎると私は思います!

その後、要潤さんは香川県立高瀬高等学校に進学し、より部活動へ没頭します。

恵まれた体格を活かして400mハードルで猛練習を重ね、県内2位に輝くなど四国大会の決勝の常連となりました。

将来はオリンピック選手になることを本気で夢見ており、大学からは陸上推薦の誘いが来るほど将来を嘱望(しょくぼう)されていました。

このときの要潤さんは、陸上競技において万能感を抱いていたのでしょうね。

要潤はオリンピック選手の夢を諦め、俳優の道へ!夜行バスでの上京と過酷な下積み時代

インターハイでまさかの転倒!大学進学も陸上競技も諦める

ここまでの要潤さんの陸上人生は順風満帆でしたが、高校3年生の6月、四国地区インターハイで突如、大きな挫折を味わうことになります。

決勝の400mハードル競技で、要潤さんは心の中で「楽勝だろう」という油断を抱いて走っていました。

ところが、8台目のハードルに差しかかったところで転倒し、まさかの失格となってしまったのです。

9年間がむしゃらに積み上げてきた努力が、一瞬の油断によってすべて白紙になってしまうという経験は、10代の要潤さんにとって耐えがたいショックでした。

それ以降、練習であっても8台目のハードルを越えようとすると倒してしまい、どうしても飛び越えることができなくなるという深いトラウマを抱えることになります。

「もう道が閉ざされてしまった」と痛感した要潤さんは、大学への推薦入学も陸上競技そのものもすべて諦(あきら)める決断を下しました。

このときの要潤さんの心中たるや、絶望感に充ちて苦しかったんだろうなと私は思います。

要潤は俳優をめざし、両親の猛反対を押し切って上京

陸上競技を諦めた要潤さんの心の中にふっと湧き上がったのは、〝俳優〟という新しい目標でした。

それまで演技の経験がまるでない息子の突然の方向転換に、両親は猛反対しました。

しかし、要潤さんは強い意志をもって両親を説得。

1999年3月、高校の卒業式の翌日に、夜行バスへ乗り込んで東京へと旅立ちました。

このとき、母親の多喜代さんも東京での部屋探しに同行してくれました。

内心では息子の一人暮らしを深く案じていたはずですが、過保護にするのではなく、「1ヵ月分の生活費は出します。あとはすべて自分でやりなさい。それほど言うなら覚悟を持ってやりなさい」と突き放し、要潤さんの自立心を促す言葉をかけて送り出したのです。

まるでライオンの親が子どものライオンを立派に育て上げるためにあえて崖から突き落とすという「獅子の子落とし」のようなエピソードですね^^

ちなみに、現実のライオンが子ライオンを崖から落とすことはないそうなので、ご安心を(笑)

要潤は下積み時代に血尿が出るほど過酷なアルバイト生活を送った

上京した要潤さんを待っていたのは、想像を絶する厳しい下積み生活でした。

プロダクションにみずからを売り込みに行くものの断られる日々が続き、生活費を稼ぐために弁当屋、警備員、工場のライン、バー、パチンコ店など、あらゆるアルバイトをかけもちしました。

短い期間、要潤さん自身も通っていた公文式でのアルバイトも経験しました。

当時の友人の証言によると、要潤さんは週7日体制で夜中に働き、昼間はオーディションを受け、食事はコンビニ弁当ばかりという極限の生活を送り、過労によって血尿が出てしまうほどだったそうです。

そんな中、同じ1999年にスタジオアルタの近くで警備員のアルバイトをしていたとき、フジテレビのスタッフから声をかけられ、人気番組『笑っていいとも!』の「看板男コレクション」というオーディション企画に出場します。

俳優志望の友人と共に出演した要潤さんは、見事に優勝しました!

ちなみに当時、タモリさんからアルタ内でじかにスカウトされたという噂が出回りましたが、要潤さん本人が事実ではないと否定しています。

要潤は居酒屋アルバイト中にスカウトされた!料理長の温かいひと言で芸能界へ

人気番組に出演して、一時的に脚光を浴びたとはいえ、すぐに道が開けるわけではなく、失敗と落選が続く日々でした。

暗闇の中にいた要潤さんに光明が差したのは、一番長く働いていた新宿の居酒屋チェーン店でのアルバイト中でした。

そこで、2023年3月まで所属していた事務所「フリップアップ」のスタッフから「俳優にならないか?」とスカウトされたのです

でも、要潤さんは、突然のスカウトに喜びながらも、中小プロダクションに所属することを躊躇(ちゅうちょ)します。

そんな要潤さんの背中を押してくれたのは、居酒屋の板長(料理長)でした。

潤ちゃん、大きな事務所に入って勝負するよりも、小さな事務所に入って一緒に大きくなる方がいいんじゃないか?

なんてすばらしい料理長なんだ!

要潤さんは、この料理長のアドバイスを受け入れ、芸能界入りを決意します。

要潤さんは、この料理長の言葉がジ〜ンと胸に沁(し)みたんじゃないかと私は思います。

ちなみに、要潤さんの趣味の料理や、複数のビールジョッキを両手で一度に挟み込んで運ぶといった特技は、キッチンからホールまで何役もこなしていた、この居酒屋時代に培われたものです。

要潤は『仮面ライダーアギト』の主役に大抜擢される!

芸能界入りした要潤さんは2001年、20歳のときに、『仮面ライダーアギト』の氷川誠/仮面ライダーG3役に大抜擢されました。

そして、要潤さんは、ついに念願の俳優デビューを果たします!

『仮面ライダーアギト』は「イケメンヒーロー」ブームの先駆けとなり、要潤さんの名前は一躍全国区となりました。

しかし、初めての撮影の現場は甘いものではありませんでした。

デビュー作の最初の演技では、わずか「はい」という一言のセリフに対して20回以上のNGを出してしまい、監督やカメラマンから「お前、全然芝居ができてないな!」と厳しいダメ出しを受ける日々が続きました。

自分が必死に頑張って撮影したシーンが丸ごとカットされるなど、落ち込むことも多かったと言います。

このときの要潤さんは、「この先、俳優として本当にやっていけるのか?」と自問自答する日々だったのではないかと推察します。

それでも、要潤さんは、「選んでいただいたことに感謝し、最後まで全力を尽くしなさい!」という両親の言葉を胸に、元住吉の自宅から撮影スタジオのある大泉学園まで毎日往復3時間かけて通い詰め、努力に努力を重ねました

もう無我夢中の日々だったはずです。

それでも、売り出し中の要潤さんは、街中でファンに声をかけられたり写真を求められたりしても決して断らず、すべて笑顔で対応したといいます。

ロケ先の祭りで自分が演じるキャラクターのお面を見つけたときには、手に取ってしみじみと眺めるなど、作品への深い愛着を持っていました。

要潤さんの人柄のよさが窺えるエピソードですね^^

特撮ヒーロー物出身の俳優の中には、その経歴を隠す人もいますが、要潤さんは一切隠さず、むしろメディアで積極的に『仮面ライダーアギト』時代の苦労や思い出を語りました。

要潤さんのこうしたオープンな姿勢は、その後の特撮出身俳優たちが自身の経歴を誇りを持って語る潮流を作るきっかけになりました。

その後、2026年には、仮面ライダー生誕55周年記念映画『アギト-超能力戦争-』で、実に25年ぶりに同役を演じ、大きな話題を呼びました。

要潤は実家で培った精神力でみずからを支える唯一無二の俳優

要潤さんは、『仮面ライダーアギト』でブレイクしたあと、2002年の昼ドラ『新・愛の嵐』でヒロインの相手役を務め、奥様方から絶大な人気を博しました。

その後、NHK連続テレビ小説『まんてん』(2002年)や大河ドラマ『龍馬伝』(2010年)『豊臣兄弟!』(2026年、明智光秀役)などに出演し、実力派俳優として確固たる地位を築いています。

要潤さんは決して器用なタイプではなく、仕事がうまくいかなかったときは「何がダメだったのか?」をトコトン考え、二度と同じ過ちを繰り返さないよう自分に厳しく言い聞かせる性格だと聞きます。

この粘り強さと誠実さは、学生時代に経験したインターハイでの手痛い挫折、そして、その挫折を乗り越えさせた実家の両親の教え、さらには、温かい家庭環境があったからこそ身についたものだと私は思います。

故郷である香川県三豊市の豊かな大自然、何事にも全力で挑戦し続けた父親、礼儀と感謝を教え込んだ母親、そして陰ながら支え続けた兄。

そうした実家の家族に支えられたからこそ、要潤という俳優は、どんなに過酷な環境でも折れることなく、優雅に、そして時にはコミカルに、第一線で輝き続けることができているのではないでしょうか。

要潤さん、応援していま〜す♪

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